義太夫初演と江戸での歌舞伎の義太夫狂言初演

(1)義太夫節と義太夫節を歌舞伎化した義太夫狂言

「国性爺合戦」などの当初は義太夫として書かれた作品を、歌舞伎化したものを義太夫狂言と言います。義太夫狂言について、歌舞伎座などの上演チラシにしても、演劇出版の「歌舞伎名作事典」などの事典類にしても、歌舞伎について記載しているにも関わらず、歌舞伎ではなく、義太夫での初演日時が記されています。これは上演形態は義太夫と歌舞伎で異なるものの作品としては同じものと見なすという考えが根底にあるのでしょう(以下では、義太夫として上映されたものを「義太夫節」、義太夫を歌舞伎化して上演した歌舞伎を「義太夫狂言」と表記します)。

(2)義太夫節の初演日時と義太夫狂言の初演日時

歌舞伎の歴史を考える場合、義太夫節での上演日時ではなく、歌舞伎としての上演日時を意識する必要がありますし、歌舞伎上演の場合でも、地理的に離れている京阪と江戸でも上演日時が異なることも意識する必要があろうかと思います。しかし、冒頭に記載した通り、義太夫狂言に関しては一般的には義太夫節での初演日時が記載されていることが多く、歌舞伎での初演日時を知るためには岩波書店の「歌舞伎年表」にあたるなどのひと手間が必要です。

戸板康二「丸本歌舞伎」所収 「丸本歌舞伎研究」によると、義太夫狂言の嚆矢は正徳五(1715)年十一月に竹本座で上演された近松門左衛門作の義太夫節「国性爺合戦」とされています。享保(1717)二年五月になって江戸で歌舞伎の義太夫狂言として中村座と市村座上演されたようで、一年半ほどの時間差があります(※1)。

歌舞伎化された義太夫狂言のもととなる義太夫節自体が江戸に広まったのは、「合作浄瑠璃の時代」(大橋正叔著「近世演劇の享受と出版」所収)では享保二(1717)年十月の竹本喜世太夫正本「八百屋お七恋緋桜」(江戸伊賀屋勘右衛門版)版行、享保四(1719)年の人形遣い辰松八郎兵衛の辰松座設立が挙げられています。

 

(※1)なお、「丸本歌舞伎」では、「国性爺合戦」に先行して宝永五(1708)年「(丹波与作)待夜小室節」や正徳四(1714)年「天神記」等を歌舞伎で上演したことは分かっているが、詳細は明かではない、と記載されています。「待夜小室節」も「天神記」も近松門左衛門作。

「待夜小室節」については、後の頁で延宝五(1677)年に京都で嵐三右衛門が演じた「丹波与作」を粉本とすることや、宝永五(1708)年に大坂で芳沢あやめが同じ「丹波与作」という外題で演じたことが書かれており、芳沢あやめが演じたものは近松門左衛門作の義太夫節を歌舞伎化したという意味だと思います。

昭和二十四(1949)年に出版された「丸本歌舞伎」後の昭和三十一(1956)年に第一巻が出版された伊原敏郎著「歌舞伎年表」は一頁の上段に「江戸・東京」下段に「京阪・其の他」が記載されています。「天神記」は正徳四(1714)年の下段の大坂に記載されています。

「待夜小室節」と「天神記」以外に歌舞伎で上演された義太夫節の例は挙げられていませんが、江戸においては、「国性爺合戦」が嚆矢と考えています。


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